
昭和43年8月、明治100年を記念して、以前から挙母の市街地で行われていた「天王・扇まつり」の日程に合わせて「第1回豊田まつり」で始まりました。
昭和43年頃の豊田市は、市町村合併で市が大きくなり、自動車産業の発展とともに市外・県外から多くの人が豊田市に働きに来ていました。「豊田まつり」が生まれた理由には「新しく豊田市に来た人も、昔から住んでいる人も一緒になってふれあい、ふるさと豊田のお祭りとして楽しみたい」という願いから「豊田まつり」が生まれました。
「豊田まつり」は「市民民踊大会」と「花火大会」を中心にして地域の伝統行事として20年間行われてきました。
しかし、時代の変化や同じ内容の祭りが長く続いたので、もっと楽しく、もっと魅力アップしたまつりに変えようとの声が高まり、昭和63年3月、市民代表による「豊田まつり懇談会」が組織され、まつりの見直しを検討して新しいまつりが提案されました。
そして、第21回からは名称も「豊田おいでんまつり」に変えて、より多くの人が楽しめるような内容になりました。
ロックのリズムの曲に合わせて、それぞれ思い思いの衣装に工夫を凝らしてディスコ調や民踊調で踊る「おいでん踊り」は、初めての人にも気軽に参加できるお祭りとして親しまれました。
「おいでん踊り」と「花火大会」を中心とした豊田おいでんまつりは年を重ねるごとに人気を集め、踊る人や観客数が増加しました。しかし、時代の変化に伴う市民ニーズの多様化、まつりの大規模化に伴う課題の発生により、安全・安心でより質の高いまつりへの転換が必要となりました。
そのような中、まつりの魅力にさらに磨きをかけるため平成18年7月市民代表による「豊田おいでんまつり懇談会」が組織され、まつりの見直しを検討し、第39回では試行として、「おいでん踊り」を地域で楽しむ参加型のまつり「マイタウンおいでん」と、そこから選抜された踊り連によるエキシビジョンとしての「おいでんファイナル」に変更し、第40回で本格実施されました。
おいでんまつりのシンボルマークは、市制50周年を記念して全国の募集して平成13年7月に制定。
1,551の応募作品の中からデザインが採用されました。
目が回る程の熱気と活力